| 記録とは生々しいもので、私達が月島でレクチャーを行ったのはわずか一年半ほど前。けれど原稿を見せてもらった今、私達の第一声は「若いねぇ!」だった。自分たちの過去の発言に思わず驚嘆したわけは、このレクチャーの後、Do+は新たな行き先を発見し、拙いながらもその道を進むことになったからだ。
リノベーションスタディーズからお誘いは突然で、僅かな時間で資料をまとめる程度の準備しか出来なかった。しかし事務局の告知も諸事情で間に合わなかったらしく、聴衆も少なく、おまけにレクチャーを行う私達も普段は聴衆側。他に比べて特殊な回だったと思う。
リノベーションというテーマに結びつくものかどうかも心配だったが、それ以上にこの当時、私達のテンションは最低だった。
Do+として数年、活動と称して行ったものの殆どがどなたかとの話し合いだった。青山、原宿、同潤会。街作り、建築、歴史、経済。安藤忠雄氏、森ビルの専務、近隣住民の様々な立場の方々。私達が恐れたのは無知と誤解による活動の頓挫で、それを防ぐために折衝と勉強を重ねて様々な情報を掻き入れ、皮肉なことにそのために頓挫していた。
当時Do+としてメンバーの総意で固めた方針は「『全保存』という単語を掲げる」ことだった。焦りにまかせて、自分達の思想を啓蒙しようとしていた。勿論これはうまくいかなかった。啓蒙以前に、保存という言葉自体がいかに不器用かを思い知った。何をどのように保存したいのか、そのために何ができるのか。取り壊しの具体的な計画が既に立ち上がっていた中で、保存という言葉の具体性を私達なりに詰めていくということへの意味も見出せないでいた。保存へつながる道を手探りしても、所詮は小さな輪の中から外へ道が伸びない。Do+は完全に行き詰まっていた。
私達が居残った理由は、青山アパートが好きだということ以外に何もなかった。青山アパートは無理だろうから別の対象を見つけようと持ちかけられたことがあったが、断った。学問的知識を超え、あらゆる人間に対してひとつの完成された風景という画を提供したこと、更にある感覚の共有に至らせDo+のようなグルーピーまで発生させてしまう影響力。タワーや寺院のような「点」ではなく、都市の中で目的地と目的地をつなぐ表参道という「線」として佇み続けた結果、いつしか何気なく鑑賞され好まれて、街の顔となった奇跡。こんな場所はもう、他に見あたらない…これらを個人的な価値判断の域を超えたレベルで表現しなくては、社会性を持った主張だとは認められにくい。とても難しいことだが、この難題を解き明かすことが私たちの活動意義そのものだと言っても過言ではない。
正直、誰かに任せたかった。小さなグループが発信する主張に対して社会性を持たせることに、限界を感じた。だからもっとエラい人、政治力や経済力や発言力のある人間に、この問題に対してアクションを起こして欲しかったのだが、その願いは叶わなかった。建築学的知識のある人間は記録保存を目指し、開発事業者の元で実測調査を円滑に行うために、余計な対立や誤解を招く訴えには苦い顔をする(言葉上同じ「保存」という目標でありながら、その内容や行動は異なるといういい例でもある)。前例は失敗ばかりだから何をしても無駄だと決めつける人もいる。それに元々開発事業者が森ビルで担当する建築家が安藤忠雄氏なのだから、建築界ならずともタテつくような行動は控えたいという人間が大半である。メディアの動きも鈍かった。ある人は「あれがフランク・ロイド・ライト作ならば協力した」と言った。周囲と自分たちとの体温差に失望することは多かった。
レクチャーの中にもあったようにDo+という小さなグループの中でも、メンバー間でいろいろな差が出てきた。レクチャーを引き受けた当時、まだそうした内輪の問題を抱え込んでいて、それまで個人的には疑問を持ちながらもDo+として総意としてきたことを話すべきなのか、自分の正直な意見を言ってもいいものか、戸惑いながら喋っていた。結果的には他のメンバーが全て辞めて、私たちふたりだけが残っている。今なら戸惑わずに話ができるのに、と思うが、皮肉なことにこのレクチャーが今のDo+を発信させるきっかけだったのだ。
それまでのDo+について話したり誰かの質問に受け答えをしているうちに、保存という言葉について巻き戻すことが出来た。保存の前に議論、議論の前に情報と知識の共有、共有の前に関心…。保存以前のステップを多くの人々と辿れる環境が整えることが、保存を訴えるより先の課題だと思った。私達は現実と天秤にかけてモノを見捨てたわけではなく、モノの保存を含めて幅広い検討が健康的に行えることを目標として、再び歩き始めた。地縁や専門的手法へのこだわりも捨てた。レクチャーの中にある敗北宣言とは、モノが残るかどうかより、このステップを丁寧に踏んでいく時間が足りないことだ。私達はやっと開き直ることが出来た。したいこととできること、希望と現実が、初めて重なった。保存という言葉の不器用さを知る一方で、外に向かってがむしゃらにそれを振り回すなんて愚かなことはやめよう。この決断が今現在のDo+の源である。
その後ふと青山アパート内のギャラリーに立ち寄ると、もうすぐ移転するのだとオーナーが話してくれた。もうチャンスを逃す暇はない。何の企画も持っていなかったが、その場ですぐさま貸しスペースの予約を入れた。お金は借りた。一週間程度後の開催期間に向けて人を集め企画を練り、這々の体で行ったのが「青山アパート写真画展」だった。2002年3月19日〜24日、青山アパート6号館1階にあったギャラリー華音留にて行ったイベントである。
私たちが会場として借りたのはギャラリー華音留の別室で、6畳にも満たない小さな空間だった。知人のカメラマンから作品を借りて展示したほか、自分たちで撮りためたデジタル画像から映像を作成してもらい壁面に映し出した。また、森ビルのパンフレットから過去の雑誌記事や図面など、自分たちが持っている青山アパート及び取り壊し問題に関する資料を全て持ち込み、自由に閲覧できるようにした。保存を訴える趣旨ではなく、あくまで客観的に問題の経緯をアナウンスすることが目的であり、この点には最も注意を払った。
告知をする間などなく知人すら満足に呼べなかったが、一週間で600人近くが訪れた。ほとんどが通りすがりで、小さな立て看板一枚からイベントに気付いてくれた人々だ。老若男女まんべんなく、また都内近郊だけではなく北海道や神戸、岡山、九州、海外など様々な場所から表参道に訪れた人が立ち寄ってくれた。取り壊し問題すら知らぬまま、青山アパートのある表参道を愛している人も多かった。日常では見慣れないようなマニアックな資料にも熱心に目を通し、各々の個人的な意見を気兼ねなく語ってくれる。また用意したボードには私達の方が驚くくらいの熱いメッセージが綴られた。来訪者は総じて滞在時間が長かった。彼らの当事者意識の高さは私達の想像を絶し、青山アパートの知名度と影響力を思い知らされた。
勿論取り壊しやむなしという声もあった。それが嬉しかった。社会的関心の高さを確認できたこと、散らばって存在していた異なる意見がひとつの場所に持ち寄られ披露されたことが、何よりの成果なのだ。やっと保存問題と社会性を繋ぐ糸を僅かでもひけたという手応えを感じた。イベントの大きな反響に支えられ、私達はWEBを再構築し、集められる限りの情報をストックし続けている。今なおBBSやメールで様々な声が届き、取材依頼がある。
建築物に永遠という約束はない。青山アパートの敷地に新築される建造物も、多くの人間を魅了させるものであって欲しい。これがなきゃ表参道じゃないよね、と無根拠ながら確実な共感をもって語らえるくらい、魅力的な街の顔となって欲しい。いつか幕を下ろす時、誰かがこうして心から寂しく思うような風景であって欲しい。今現在残り僅かな命を削りながら解体の日を待つ、愛しの青山アパートのように。そして街や建築物に対する問題解決への道が、せめて今よりマシな状況であって欲しい。何を持ってマシかということを、多くの人間が参加し考え、話し合ったプロセスの基で。
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